楽園ブログ

「いつも心に太陽を!」そんな気持ちで感じたことを綴っています。

『スポーツマンは誇り高く生きる』という話

公立高校が甲子園に出る意味ってあるんですか?

ネットの質問箱に、公立高校が甲子園に出る意味ってあるんですか?、と書き込まれ、すこし物議を醸したという記事を読みました。おそらくは、私立高校なら、甲子園に出ることで知名度が上がり、生徒募集を有利に進めることができる、学校規模拡大による増収により学校経営が安定するという理解が根底にある質問だと思います。たしかに、公立高校の場合、学校の人気が高まるのは結構だが、それだけのことではないか、という考えもあるでしょう。また、どうせ勝てはしないのでは?というような思いもあるのかも知れません。でも、これはやっぱり人間の「心」に向き合っていない意見だな、と思いますよ。

厳しい練習に駆り立てるのは「意味」だけではない!

わたしは長男がサッカーをやっていたこともあり、高校サッカーには強い関心があるのですが、わたしの住む県では、某私立高校のほぼほぼ一強状態が長く続いており、今年の県代表も「やっぱ〇〇高校かぁ~」という感じでした。県内の多くのサッカー部員たちは、自分たちの手で歴史を変えてやる、という強い気持ちで毎日の厳しい練習に取り組んでいますが、おそらくは、決して簡単なことではないことも感じていることでしょう。でも、多くの者たちは、必ず頂点に立ってやる、という強い気持ちで日々励んでいます。果たしてそれは欺瞞なんでしょうか?。いえ、決してそのようなことはないと思います。零下のグラウンドを真っ白な息で走り抜けるその表情、身も凍るほどの寒風吹き荒ぶなか無心にボールを追うその姿を一度でも見ることができたなら、それは誰もが感じることができるはずです。

人間を突き動かすもの……

人を試練に向かわせるのは、これを頑張れば勝てるだろう、ここで耐えれば認められるだろう、有名になれるだろう、出世できるだろう、お金持ちになれるだろう、等々のような「意味」だけではありません。これは哲学上の概念で、「強度」と呼ばれるものです。「強度」は、「意味」のように言葉で理解するものではありません。「体感」するしかないものです。言葉で説明し、納得することはできないけれど、「強度」を体感することで人間は大きな充実感に満たされるのです。わたしは、その充実感こそは命あるものの生命の輝きだと思っています。今日も様々な学校で、夢を信じて多くの生徒たちがボールを追っています。そしてその無数の夢は夢のまま散ってしまうのです。それなら、そんな頑張りには「意味」がない、というならば、そうかも知れません。でも、誰がどう思おうと、彼らの躰の中には夢を追って自らの限界で頑張って感じた生の充実感が満ちています。栄冠は青森の高校だけのものかも知れませんが、地方大会の1回戦で敗れた生徒たちを含め、そこに挑んだすべての生徒たちに「誇り」はあります。スポーツマンは誇り高く人生を歩んでいくと信じたいです。

 

いつも心に太陽を