楽園ブログ

「いつも心に太陽を!」そんな気持ちで感じたことを綴っています。

現在1勝3敗! 定年後の過酷な就職活動(-_-;)!

キビシイ就職活動!

3月末で37年間勤めた事業所を定年退職するわたしは、4月以降は「心理カウンセラー」として生きていくという希望(野望?)を抱き、昨年12月から就職活動に鋭意挑戦していますよ。これまで地道にじーっと一つの仕事にただひたすら取り組んできたわたしは、自由な雰囲気に猛烈にあこがれており、定年を機に、できれば一所にフルタイムで働くのではなく、非常勤でいくつかの仕事を掛け持ちで生計を立てる、という野望の下、ただ今就職活動の真っ最中であります。ハローワークにも求職者登録をし、マイページも作成しました。そして今痛感しています。就職活動はキビシイ~です。もちろん私に知識や技能その他の魅力が不足しているだけかもしれません。自分はどんどん決まっているよ、という人もいらっしゃるでしょう。でも、わたしにとっては、聞いていた(想像していた)以上に就職活動は厳しい展開となっています。現在の成績は1勝3敗で、3敗のうち、1つは書類は通りましたが、面接で「残念」、あとの二つはなんと、書類提出後1週間もしないうちに「不採用」のメールが突き付けられました。いやぁ~参った!。わたし自身近年は新卒職員の採用業務にも関わっていただけに、そんな自分に突き付けられた現実にかなり動揺してしまいました(-_-;)。

「不採用」が60歳オジサンに与えるインパクト!

初めて「不採用」の通知を受け取った時のこと、まぁ、そういうこともあるだろうな、と全く思わなかったわけではありませんが、やはり激しいショックを受けました。とても自分が惨めな辱めをうけた、と感じました。もちろん不採用となった理由はわかりません。わたしの経験や能力・技能に不足があったのかもしれませんし、単純に60歳のオジサンが嫌われただけかもしれません。これまでの職業人としての自身の職業人生にある程度の矜持があっただけに、久しぶりの「現実」はとてもインパクがありました。そして、これが誰かに知れたらとても恥ずかしいな、と思いました。世間からすれば大したものではないでしょうが、わたしの「肩書き」が軽んじられたようで、哀しくもありました。

人を苦しめるのは誰か?

しかし、曲がりなりにも心理学を学び、対人支援を生業としてきたわたしです。なるほど、やっぱこういうことなんだよなぁ、とすぐに思い直すことができました。これこそがわたしがこれまで星の数ほど人に語ってきたことなのです。わたしを窮地に陥れたもの、苦しませたのは、応募先の採用担当者では断じてありません。彼らは私を不採用と決定することはできますが、それをもってわたしを動揺させ、苦しませることなど絶対にできはしないのです。そうです。わたしを苦しめているのは、不採用とされて悲しい、辛い、恥ずかしい、惨めだ、と考える私自身の「認知」以外ではありえないのです。

自分を支配できるのは自分自身だけ!

いやいや、不採用なら普通悲しいでしょう、生活にも困るわけだから、という人もいますよね。もちろんそれは正しいです。現実に私も苦しんでいます。また、就職に限らず、世の中には平気で他人を傷つけるようなことを言う人、理由もなく他人をダマしてくるような人がたくさんいます。嫌なことを言われれば良い気はしませんし、ダマされれば実害が生じることもあるでしょう。しかし、そんな人間でも、それを悲しい、と私たちに感じさせることは絶対にできはしないのです。悲しい、苦しいと感じて自分を追い込んでいくのは、他ならぬ自分自身なのです。

簡単ではないが、必ず道はある!

わたし自身をクライエントに喩えれば、不採用としてきた応募先は、求人票には決して書けない「女性」や「若い人」をターゲットとしていただけかもしれません。通勤距離があまりに長くなることと嫌っただけかも知れません。それを自分の技能や経歴が不十分だから、とか、この先もまた不採用になるんじゃないか、と自分自身で決め込んで苦しんでいるのがわたしなのだということです。そんな人の思い違いにはだいたい10パターンあるとされ、「認知の歪み」として認知行動療法では整理されていますし、自己肯定感を高めるためのワークもいろいろあります。マインドフルネスで副交感神経を整えることも有効です。どれも訓練が必要なので、簡単ではありませんが、必ず道はあるのです。さてさて、わたしの就職活動にはこの先どんな結末が待っているのか、自己肯定感爆下がりのわたしですが、前を向いて突き進むだけですよ。

いつも心に太陽を

定年退職後はどうするんですか?

やっぱり気になりますよね?

わたしは、今年度いっぱい、あとひと月あまりで定年退職を迎えます。就職したのは、昭和61年ですから、遙か昔のこと、こんなにも何気なくこのときを迎えるなんて思いもしませんでしたし、何気なくこのときを迎えられたことを幸せにも思います。さて、先日所属長会議がありました。わたしにとっては最後の所属長会議になります。帰り際、隣の地区の事業所で、若く所属長に抜擢されたA君が何やら緊張した面持ちで話しかけてきましたよ。わたしは「来るな!」って思いましたね。ここ数ヶ月のことずいぶんと聞かれたあの質問ですよ。おそらく彼は、今日は〇〇さんに直接聞いてみよう、と心に決めてきたようにも感じました。顔の広い彼のことです。たぶん私の回答はその他の人と一緒に、たちどころに広く県下全域に行き渡ることになるなと思いました。

農業をやります!

所属長を務めた人のなかには、関連する団体や企業、若しくは専門知識を活かして高等教育機関などに招聘される人もおり、誰がどこから声がかかるかは所属長たちの間では、大いに興味のあるところであり、この時期格好の噂のネタなのです。なかには国の研究機関から招聘等ということもあり、勿論そんな人は皆の羨望の的になるのです。わたしはそんな人たちの心の中がよくわかっていますので、わたしがどこからも声を掛けられていないということが知れれば、きっと彼らもなんだかひと安心、羨まないで済むと胸を撫で下ろすことも理解しています。ああ、もしわたしに良い再就職の口が用意されていたらどんなにか良い気分になれるだろう、と思いましたが、残念ながらそのようなお声は一切かからなかったわたしは、現在自力で心理支援、カウンセラーの口を探してはいくつか応募している、まさに進行形の求職活動真っ只中であり、本当に残念ですが、A君を凹ましてやるような弾を一つも持っていないのです。頭が真っ白になりました。A君の、気の毒そうな、憐れむような表情がすぐに見て取れました。で、そんなわたしが何と言ったか、これは後になって自分自身とても不思議ですが、びっくりするほど自然に口をついて出てきたのは、「農業をやります」だったのです。

自分の生き方は自分で決める!

農業をやるのは嘘ではありません。わたしの家は、父親の代まで兼業農家でしたので、米作りのための農機具はひととおり揃ってはいます。わたしは現有する田んぼの4分の1くらいは復活させたいと思い、この夏から農業機械の整備にも挑戦してきました。しかし、だからといって、相手は定年後に従事する職業を聞いてきたのですから、農業ではおよそ答えにはならないでしょう。収入を得るところまでいくとは到底考えられない状況です。でも、不思議ですね。そう答えて呆気にとられているA君を見ていたらなんだか良い気分になってきました。なんだか禅問答みたいで、煙に巻いてやったぞ!みたいな感じですかね。もちろんA君は煙になど巻かれてはいませんよ。おそらく心の中ではばかにしているのでしょう。でも、わたしにはなんとも言えぬ、清々しさが残りました。これでいい、わたしはそう思いました。押しつけられるのはもうたくさん、自分の生き方は自分で決めます

いまこそ心に太陽を!

自分なりに専門性を高め、業務に鋭意邁進してきたつもりですが、わたしには他人が羨むような再就職口は用意されませんでした。運が悪いからなのかも知れませんし、わたしに何か問題があるのかも知れません。どちらにせよ、自分が歩んできた道に何ら後悔はありません。わたしなりに十分努力し、耐え難きを耐えてきたつもりです。なんとか、非常勤ですが、カウンセラーの仕事で内定が出そうです。まだまだ、人生はこれからですよ~!心の中で、いまこそ心に太陽を!と強く叫ぶわたしなのです。

いつも心に太陽を


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親しくなるということ ~迷惑動画のニュースから~

迷惑動画のニュースから

有名飲食店での迷惑動画の拡散が大きな話題となっています。株価の下落や風評被害等で莫大な被害が発生していることを考えると無視できない社会問題と言えるものですよ。飲食店でわたしたちが使用する食器が動画で映し出されたようなものでないということは、今日の社会において信用がいかに大きいものであるかを今さらながら思い知るところとなりました。絶対に許されないことだなぁ、と思いながらニュースを見つつ、この機会に是非とも書き留めておきたいなぁと思うことがありましたので此処に記したいと思います。

「富岳」のシュミレーション動画をおぼえていますか?

新型コロナウィルス感染拡大の初期段階において、感染の可能性を計るものとしてスーパーコンピュータ「富岳」のシュミレーション動画がニュースでこれでもかというほど紹介されました。ウイルスは飛沫感染するということから、では人が話をするとき、くしゃみをするとき、どれくらい飛沫は飛散するのか、ということになったわけですね。くしゃみをすれば、たとえマスクをしていたとしても、飛沫が広範囲に飛散するのは驚くべきことではありませんよ。そうではなく、わたしたちが驚愕したのは、通常の会話でも実はたくさんの飛沫が飛んでいるということでした。通常の会話ならマスクでずいぶん抑えられるようですが、食事のときはマスクをするわけにはいきません。そこで、「黙食」なる概念の登場となりましたよ。飲食店の営業自粛要請、そして政府や自治体からの補償問題へと大変な事態となったのは実はつい最近のことでした。

人と人が親しくなるということ

わたしたちは見ず知らず人と同じテーブルで食事をすることはありません。いや、わが国には「相席」という文化があるよ、という人もいるかも知れませんが、そこで会話が弾むということはやはりないでしょう。でも、わたしたちは職場で、学校で、地域社会で知り合った人といつしか心を通わせ、一緒に食事でも、というようにその距離を徐々に縮めていくものですよ。それが男女の間ならなおさらわかりやすいですね。お互いの考え方や趣味などを知り、その距離を縮めながらデートでは一緒に食事をする、ことになるのです。費やされる時間や場面は異なっても、誰もが辿る道程です。

「富岳」がまざまざと映し出した飛沫拡散の様子は、人と人が距離を縮めていくということをリアルな物理現象として明らかにしました。やがて家族となった男女は、食事は勿論のこと、常に近い距離にお互いを置いて生活することになるのです。無論これは愛情のなせる業ですが、少し大げさに言えば、信頼こそがその根底にあり、それは運命をともにする覚悟、ということに他ならないのではないかと思います。

先日、部下の職員から結婚の報告を受けました。運命をともにするというわけですね。どうか幸せであってほしいと心から思いますよ。

いつも心に太陽を!」

『涙活』涙の分だけ幸せになる……

「涙活」っていうんですか!

同僚と茶飲み話をしていて、わたしが本を読んだり映画とか観るとよく泣いちゃうんだよね、みたいな話をしたところ、同僚が、それって「涙活」ですよね!って教えてくれましたよ。「就活」とか「婚活」とかよく聞く話ですけど、どうやら「涙活」もあるみたいで、今日はそんなことについて書いてみますよ。

「涙活」とは……

早速ウィキで見てみると、「意識的に泣くことでストレス解消を図る活動。寺井広樹によって考案、提唱された造語である」とありました。泣くことでストレス解消ということですね。そう言えば「うんと泣くがよか、涙は心の汗たい。」という言い回しがありますが、あれはスポーツで汗を流した後は誰もが心地よい気持ちになるように、涙を思い切り流したその後は気持ちがすっきりするものだ、ということでした。涙の効用にはいろいろな考え方があるのだと思いますが、それを思うと、わたしはどうしても少年時代の強烈な読書体験に行き着いてしまいます。

熱かった年少期の読書体験

わたしはとても熱心に本を読む子どもでした。本といっても、年少期のことですから、絵本や大きな挿絵がたくさんあって絵本と区別のつかないようなものばかりでしたが、とにかく本ばかり読んでいる子どもでした。両親はそんなわたしを見てずいぶん期待したようで、学校の先生になったらどうか、みたいなことをよくわたしに話しましたが、肝心の成績にはまったく反映されないので、いつしかそんなことも言わなくなりました(ーー;)。印象に残っている本はもちろんたくさんありますが、なかでも「泣いた赤鬼」赤いろうそくと人魚「殿さまの茶碗」三年寝太郎等から受けた影響にはとても大きいものがありました。「泣いた赤鬼」では、ラストの青鬼の手紙で、赤鬼と仲良くしているところを村の人が見たら、自分たちの計画が知られてしまうから僕たちは二度と会わない方がいい、でも僕たちはいつまでも友達だ、と赤鬼に知らせるところがありますが、それを読んだわたしはあまりの感動で、涙を滝のように流しただけでなく、嗚咽でこのまま息ができずに死んでしまうのでは、というくらい苦しみのたうち回ったのでした。そしてそんな感動を経験してしまったわたしは、さらに深く物語の世界にのめり込んで行ったのです。また家族や友達や先生にも知られない自分だけの世界があることが何よりも気持ちよかったのを憶えています。

感動の正体は「セロトニン」!

心理職に就いている人には必須の知識だと思いますが、セロトニンは、自律神経をリセットすることで精神を安定させる脳内の神経伝達物質で、他の神経伝達物質であるドパミン(喜び、快楽など)やノルアドレナリン(恐怖、驚きなど)などの情報をコントロールする働きをもち、別名「幸せホルモン」とも言われています。わたしは感動に浸る読書のなかで大いに幸せを感じてはさらなる幸福感を求めて自身を読書の海に投じていったのだと思われます。本ばかり読んでいるのに勉強はできないのですから、周囲の大人たちにとってはちょっと「ヘンな子」だったと思いますが、還暦を迎え人生を振り返るとき、大いに泣いて感動の多かった日々を送れたと思えるのは、年少期の読書体験によるところが大きいと考えています。「涙活」良いじゃないですか、とても可能性のある考え方ですよ。泣いた分だけ強くなり、泣いた分だけ幸せになれる、どうやらこれは本当みたいですよ。

いつも心に太陽を

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なぜ新年はめでたいのかという話

「新年」は「おめでとう」?

令和5年のお正月も松飾りを外すころとなり、無論仕事も通常通り始まっていつもの日常が戻ってきましたね。さて、お正月に何度も交わしたご挨拶、「新年あけましておめでとうございます」とは何でしょう?なぜ新年はおめでたいのでしょうか?わたしは子供のころ、両親が親せきに向かって「おめでとうございます」とあいさつするのを見てずいぶん不思議な気持ちがしたのを憶えていますよ。

お正月は「お歳とり」!

子どものころ、大みそかの食事を親たちが「お歳とり」と呼んでいたのを憶えています。成長すればだれもが知ることであり、今更言うまでもないことですが、新年の「おめでたさ」はまさにこの「お歳とり」のことでした。つまりお正月を迎えるということは、ひとつ新しい歳を加えるということであったのです。そこには「数え年」という概念も大きく関わっているといわれていますよ。「数え年」は、その年の誕生日が来るまでは「満年齢」と2歳違っています。なぜこんなことが起こるのかというか、ここが「数え年」の最もゆかしいところといいますか、ステキな考え方なのですが、「数え年」では、生まれたときに「0歳」という考え方をしません。なぜなら、すでに生を受けて「命あるもの」なのに、0(ゼロ)というのは馴染まないのでは、という考えです。ですから生まれたときにすでに「1歳」という考えなのです。そうです。年齢は「命」そのものという考え方ですね。ではいつ歳を重ねるのかということですが、それが「お歳とり」であり、「お正月」なのです。お正月に家族全員が一つずつ「歳」を重ねるのです。つまりは家族全員が新しい「命」を授かるということなのです。皆がお互いに「おめでとう」と言い交すのは当然なのです。素晴らしい文化ですよ。だって重い病気に罹ることもなく、大きな怪我もせず無事に新しい命を迎えることができたのですから。現在のように医学の進歩が図られていない時代ほどその有難みは大きかったろうと思います。現在も、家族にご不幸のあった家庭では、いわゆる「お正月の祝い」をしませんよね。年賀状も出さない。新しい命を授かることのできなかった者がいるのに「おめでとう」とは言えない、ということですね。それは気配りの文化でもあるのです。

大事な一年にしたいですね!

ともあれかくもあれ、わたしたちは「新しい命」を授かりました。与えられた「命」をどう生きていくか、それはわたしたちに委ねられています。それは科学的ではないけれど、わたしたちの人生そのものです。「命」を大事に、一日一日をいとおしく大切に生きたいですね。そして一年の終わり「お歳とり」の日には深々と感謝の意を致し、再び新年を晴れ晴れと迎えたいですね。本年もrakuenblogをよろしくおねがいします!

いつも心に太陽を

上手く話すということ…

芸人さんでも話の下手な人はいる!

年末のテレビといえば、やっぱり芸人さんたちの出演するものが多いですよね。漫才の軽快なトークは内容が笑えるかはともかく、聞いていて上手だなぁと思うことが多いものです。流石に話し慣れてるという感じですよ。でも、先日テレビである芸人さんが話す場面を見ていて、あれぇ~っと思うことがあったので今日はそんなことを綴ってみますよ。

これフツーの人じゃん!?

その番組は漫才コンビが多数出演していた番組で、某著名なコンビがたくさんのレギュラー番組を持っていることについて急遽自分の思いを話すよう言われた時のことでした。その芸人さん、ふだんはカクゼツ良く話すのに、照れたのか、突然の無茶ぶりだったからなのか、「えー」とか、「あー」とか何度も何度も挟みながら本当に聞きづらい挨拶をしたのでした。あまりに下手なのでびっくり、それはわれわれ一般人と同じレベルでしたよ(-_-;)。

聞きやすい話とは…

わたしはとても小さな事業所ですが所属長をしていますので、何かといえば挨拶をしなければなりません。今はほとんどありませんが宴会の時や若い職員の披露宴、また会議の場などです。会社などにお勤めの人は良く分かっているところだと思いますが、仕事として聞かねばならない人の挨拶が下手だと本当にキビシイですよね。話の内容が禄でもなければもちろん不愉快になりますが、そうでなくてもやたら「えー」や「あー」や「あのー」みたいな調子合せが入ると本当に嫌になるものですよ。自分が挨拶をするようになってすぐに気が付きましたが、話に「えー」とか「あー」みたいなのが多く入るときは、自分の話に自信のない時、最後まで話の組み立てができていない時なのです。要するに、その場で自分が何を目的にどのような話題を使って、どのように話を組み立てて結論付けるか、これがきちんとできている人は「えー」や「あー」なんて言ってごまかしたりする必要がないのです。結果的に最後まで分かりやすく話をまとめることができます。わたしは、若いころから話の下手な上司の挨拶にいつも辟易していたので、所属長になった時から折々の挨拶にはずいぶん気を遣ってきました。もちろん長い話をよけいな言葉でごまかさずにきちんとまとめることはとても難しいです。だから話の上手いタレントさんなどには常々敬服していますよ。でも、注意してみると、政治家などにもそんな高度な話術を持った人はたくさんいます。なんでもそうかもしれませんが、自分がその立場にならないとなかなか気が付かないことは多いものです。さてさて、今年も静かに暮れていきます。来年も素晴らしい年となりますように。

いつも心に太陽を!』

『シャルパンティエ効果』を知っていますか?

シャルパンティエ効果とは?

シャルパンティエ効果(Charpentier effect)は、 「大きさ、重さの錯覚(size-weight illusion)」ともいわれ、同じ重量の物体を比較した際に、視覚的に大きく見える物の方をより軽く視覚的に小さく見える物の方をより重い錯覚してしまう現象のことをいいますよ。どういうことかというと、人は大きなものは「重い」、小さなものを「軽い」と無意識に見積もってしまう(予想してしまう)ので、実際にそれを持ってみると、予め「重い」と判断していると、(思ったよりも)軽く感じたり、逆の場合は重く感じたりするということなのですよ。わかりやすくいえば、実際に持った時に使った力との「ギャップ」がその錯覚を引き起こすということですよ。この錯覚は、重さが同じであることを事前に知っていたとしても起きることが実験でわかっているので、人の感覚としては、視覚(イメージ)が優位に働いていることを示しているともいえますよ。

生活に活きている「シャルパンティエ効果」

シャルパンティエ効果」は宣伝広告に活きていたりします。「レモン100個分のビタミンCを配合」みたいなのがそれです。これは、「レモンにはビタミンCが多く含まれていそうだ」という、わたしたちの先入観を利用したキャッチコピーであり、「ビタミンC2000mg配合」というキャッチコピーでは、ビタミンCの配合量の多さについて、わたしたちは上手くイメージできないのです。

また、現実社会で重いものを持ち上げることは特殊な仕事に限られるでしょうが、イメージと現実の場面のギャップということでは、これと似たようなことをわたしたちは日々感じているのではないでしょうか。仕事で深刻な行き違いやミスをしてしまい、ひょっとしたら大変なことになっているんじゃないか、と食事もできないほドキドキしながら現場に急いで行ってみると、それほどでもないな、と妙に安心してしまうことがしばしばありますが、やはりあれは本当にひどい場面をあらかじめ見積もっているから(それを比較して)ということなのではないでしょうか。

シャルパンティエ効果」とゆずれない夢!

京都にある有名な「伏見稲荷大社」の『おもかる石』を知っている人は多いと思います。実際に経験したこともある人も多いのではないでしょうか。灯篭の前で願い事をしたあと、灯篭の上に置いてある丸い石を持ちあげるのですが、その重さが自分が予想したよりも軽いと願いが叶うと言われているものです。あれも「シャルパンティエ効果」で考えることはできないですかね。自身の夢をどう見積もるかは、そのためにどう生きているかということと大きな関係がありますよ。心願成就の重大さをしっかり認識していれば、知らず知らずきちんとした準備ができるでしょうし、願いを軽く見積もっていれば、自然と準備も蔑ろとなり、結果的にその願いはかなえられないということもあるでしょう。実はわたし、ある思いを胸に『おもかる石』を持ち上げた経験があるのです。今でもはっきり憶えています。偽りなく「重い」と感じました!。甘かった、のです、わたしは。これはシャルパンティエの夢」として、わたしにとって忘れ得ぬものとなりました(ーー;)。

いつも心に太陽を